PauseBLOG 記者会見・コラム

Oct 07, 2008

まぎれもなく“スター”だったP・ニューマンの代表作。

我が青春のスター、ポール・ニューマンが亡くなった。巨星墜つ、といった気分だ。偶然か、この時期に彼の生涯のベスト5に入れてもいい大傑作『暴力脱獄』(1967、スチュアート・ローゼンバーグ)が新たに起こされたリマスター版で〈特別版〉としてリリースされた。ニューマンの評伝作家で知られるエリック・ラックスによる「ポール・ニューマン、魅力の全て」的な音声コメンタリーと共に、約28分間のメイキング映像が初めて収められた。

Dvd_chl2 DVD WHV DLV-Y15722(10月8日発売 4,179円)
BD WHV WBA-Y15681(10月8日発売 4,980円)

ポール・ニューマンはタイトルに“H”のイニシャルを入れることを好んだ。ほとんど「ゲン担ぎ」と言ってもいいだろう。この『暴力脱獄』の原題にも“H”は入っている。“COOL HAND LUKE”、「ハッタリ屋」ルークとでも訳そう。“H”へのこだわりは『ハスラー』“THE HUSTLER”(1961、ロバート・ロッセン)でアカデミー賞最優秀主演男優賞の候補となったことに始まる。翌年、『ハッド』“HUD”(1962 マーティン・リット)でも同賞候補となったことから、“H”へのこだわりを更に強めていった。探偵映画『動く標的』(1966、スチュアート・ローゼンバーグ)では同名原作の主人公の名前をアーチャーからハーパー/Harperに変えてしまう程の“H”へのこだわりよう。“H”の入った『暴力脱獄』への主演にニューマンはかなりの熱の入れようだったと言う。幸いにもこの映画でもアカデミー賞最優秀主演男優賞候補になったのだから、イニシャル“H”はニューマンにとってはおみくじの「大吉」と同じだ。パーキングメーターを壊した罪で刑務所のような更正施設送りとなったポール・ニューマン演じるルークの軽いノリの人を喰った性格が全篇に鮮烈な印象を残す。囚人仲間と看守たちをまんまと欺き、ノウ天気にC調に脱獄する場面は60年代アメリカ映画の名シーンの中の名シーンと言ってもいい。リマスター版で見直すその場面の色鮮やかさが「ハッタリ屋」ルークの底抜けの明るさと見事に合わさっている。ルークの人を喰った性格を更に見事に物語るくだりが、今や伝説となった「50個の卵を平らげる」というとんでもない賭けに挑む場面だ。「あの場面ね、ポールは50個とまではいかなかったけれど30個以上は食べたね」と教えてくれたのは囚人役で映画デビューを飾ったジェームズ・ギャモン(後に『メジャーリーグ』〔1989、デヴィッド・S・ウォード〕のチーム監督役を演じる俳優さんである)。ニューマンのお腹がみるみる脹らんでいくのは映画を観ても一目瞭然。かなり苦しそう。「30個以上は食べた」は本当だろう。
この場面を観て「俳優は役に応じて体を作らなければならない」と学んだのがロバート・デ・ニーロ。ポール・ニューマンの演技スタイルに習い、『レイジング・ブル』(1980、マーティン・スコセッシ)で体重を23キロも増やすという涙ぐましい役作りをやってのけた。ニューマンの演技スタイルは現代アメリカ映画の基本理論、メソッドと言ってもいい。瀕死のルークを乗せた車が通り過ぎた直後、青の信号が赤に変わる。リマスター版の色の綺麗なこと。ルークの死を伝える名ラストシーンである。

                        Text by 田沼 雄一/Yuichi TANUMA(映画評論家)

2008 10 07 [Pick UP! DVD] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

Jun 10, 2008

vol.5 『ラストエンペラー』 ベルトルッチとストラーロ。繊細さと執念が生んだ名作。

1987年度(第60回)アカデミー賞で作品賞、監督賞、脚色賞等、演技部門を除く主要9部門を独占した名作だ。満州映画協会(満映)の理事長・甘粕正彦役で出演もしている坂本龍一がデヴィッド・バーン、スー・ソンと共にオリジナル作曲賞を受賞したことは、当時、映画界で最も大きな出来事だった。今回のDVDは、1988年1月に松竹・東急洋画系でロードショー公開された2時間43分のオリジナル版ではなく、ベルナルド・ベルトルッチの意を汲み製作のジェレミー・トーマスが56分もの場面を追加した〈ディレクターズカット版〉である。史上初となった紫禁城内でのロケ場面がかなりの分量、追加されている。6年程前に紫禁城内を見学したことがあるが(隅々まで見るには丸2日掛かる!)、今回のディレクターズカット版を観て、北京の下町方面へと抜けることができる城の裏手でも撮影されていたことに驚かされた。幼少の溥儀が行進する石畳の中央広場、その周りにある棟の回廊だけが撮影されていない。中国最後の皇帝・溥儀(ジョン・ローン)の側近を含む臣官らが中国軍部によって城から追い出される場面は、紫禁城裏門の巨大な城壁の周辺で撮影されている。普段、観光客でもなかなか行かない場所である。〈ディレクターズカット版〉を観ると紫禁城を見学した気分になれる。

Dvd_le1 DVD 「ラストエンペラー ディレクターズカット」 東北新社 TBD1151
        (6月13日発売 3,990円/初回生産限定版) ※本篇219min./スクリーンサイズ2.00:1
BD 未発売

この作品でアカデミー賞撮影賞を受賞したヴィットリオ・ストラーロは紫禁城内での大ロケーションを前にして、現地の中華電影公司の係官に「城の一部に火を放ってもいいか」と真顔で訊いた。係官は「気が動転したような表情になった」そうで、もちろん中国が世界に誇る「世界遺産」に火を放つことなど許されるわけはない。ストラーロが何故そんなことを訊いたのか、これまでのオリジナル版からは判らなかったが、この〈ディレクターズカット版〉を観て納得。紫禁城を取り囲む町の一部が戦火で炎上する場面があった。その場面を更に迫力あるものにするため、ストラーロは紫禁城も燃やしたくなったのかもしれない。
この〈ディレクターズカット版〉、音が素晴らしい。冒頭、戦犯容疑で逮捕されボロボロになった溥儀がリストカットするくだりから、音楽と場面の背景となる効果音のミキシングの良さに惹き込まれる。中盤に描写されている溥儀が主催する夜会の場面では、女性たちのドレスが擦れる音が聴こえ、夜会に集った男女の囁き声まで拾っている。細かい音をたくさんミックスさせながらその場面の効果を盛り上げている。B・ベルトルッチの繊細な演出に酔う。この音の良さで公開時に観たかったなぁ、とつくづく思わされた。溥儀が忽然と現れ、少年に埃をかぶった虫籠を手渡し、そして姿を消すラストの音楽の澄み切った響き。アカデミー賞受賞もうなずける。『レッズ』(1981、ウォーレン・ベイティ)のラストシーンと共に忘れることのできない、V・ストラーロ撮影の名場面である。

Text by 田沼 雄一/Yuichi TANUMA(映画評論家)

2008 06 10 [Pick UP! DVD] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

Dec 20, 2007

vol.4『未知との遭遇』 ここに、スピルバーグが抱き続けてきた“夢”がある。

    スティーブン・スピルバーグの劇場用初のSF映画『未知との遭遇』は全米では1977年12月、日本では78年2月に公開された。日本ではこの時点で、77年5月に全米を興奮のるつぼに巻き込んだジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』は公開されていなかった。日米同時公開が当たり前になりつつある現在では考えられない珍現象であった。

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    『未知との遭遇』はアリゾナ州のスコッツデイルという周囲を岩山と砂漠に囲まれた小さな町で育ったスピルバーグの、少年時代の思い出がたくさん詰まった傑作である。1977年の〈初公開版〉、80年に巨大な宇宙船の内部シーンを追加した〈特別篇〉、そしてスピルバーグ自らが特別篇編集時にカットされたいつかのシーンを元に戻し、同時にいつかのシーンを削除した〈ファイナル・カット版〉。その3種類を収めたDVD「製作30周年アニバーサリー・アルティメット・エディション」は、そのままスピルバーグの思い出箱と呼んでもいいぐらいの物だ。
    「We are not Alone 宇宙にいるのはわれわれだけではない」という公開時の宣伝コピーは、少年の頃、父アーノルドと出かけたキャンプの晩、夜空に輝く無数の星を眺めながら強く感じたスピルバーグの、その時の想いでもある。そのキャンプから数年後、スピルバーグは16歳の時、自主製作で16mmによる“FIRELIGHT”(1964)という上映時間2時間20分のSF映画を創ることになる。謎の光を追跡する科学者グループを描いたストーリーで、『未知との遭遇』でフランスの映画監督、フランソワ・トリフォーが演じたクロード・ラーコム博士ら科学者グループのエピソードの原形となっている。
    七色の強烈な光を放射しながら、夜空の彼方からこの地へ降りてくる巨大な宇宙船は、“FIRELIGHT”を製作した頃からスピルバーグがずっと心の片隅に持ち続けていた夢のカタチ。夜空に輝く無数の星を眺めながら、いつか必ず宇宙にいる“何か”と出会うことが出来るかもしれない、と強く思い始めたその気持ちを『未知との遭遇』の巨大宇宙船の存在に託して見せたのだ。『未知との遭遇』はスピルバーグが少年の頃から抱き続けている想いを大きなスクリーンに投影した“夢の映画”でもある。だからこそ、初公開版~特別篇~ファイナル・カット版とこだわってきた。
   リチャード・ドレイファス演じるロイ・ニアリーはコンピュータ・エンジニアだった父アーノルドをモデルにしている。宇宙船へと導かれる幼児のバリー・ガイラーは少年時代のスピルバーグ自身で、父親のいないガイラー家は両親が離婚したスピルバーグ家を思わせる。映画の終盤に人類の前に姿を現す宇宙人の容姿、頭が大きく体が細い体型は、幼少時のスピルバーグによく似ている。そして彼ら宇宙人は、やがて誕生する名作『E.T.』(1982)のあの愛らしい宇宙人の原形となっていくのだ。

Text by 田沼 雄一/Yuichi TANUMA(映画評論家)

2007 12 20 [Pick UP! DVD] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

Nov 29, 2007

Vol.3『ブレードランナー』 好みで言えば、手作り感があった初公開版、か。

   『ブレードランナー』(1982)は1982年7月、夏休み映画として公開された。主演のハリソン・フォードは前年に全米で大ヒットした『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981、スティーブン・スピルバーグ)で名実共に大スターとなっていた。『レイダース』は日本では82年お正月映画として公開された。H・フォードは日本の冬と夏の映画興行を飾り、この82年頃から数年間、人気ナンバーワン男優となる。

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  『ブレードランナー』はハリソン・フォードの主演映画として大々的に宣伝された。『レイダース』の冒険男児インディ・ジョーンズとは対照的な私立探偵風のリック・デッカード。彼のナレーションで進行する物語はハンフリー・ボガート主演のハードボイルド探偵映画をホウフツさせ、映画マニアをニンマリさせた。数年後、製作プロダクションのラッド・カンパニーがルドガー・ハウアー演じるレプリカント、ロイ・バッティがレプリカント開発者、エルドン・タイレル(ジョセフ・ターケル)の目を潰す残酷シーンを追加したインターナショナル版を『ブレードランナー 完全版』(1982)と称してビデオリリース。そのあたりからSFオタクが騒ぎ出し、H・フォード映画からリドリー・スコット作品として認識が改められていくことになる。やがて、初公開から10年、1992年にデッカードのナレーションとエンディングの森のシーンを削除し、彼が夢の中で森を駆け抜けるユニコーンを見る場面を追加した『ディレクターズカット/ブレードランナー 最終版』(1992)が劇場公開された。
   最終版と銘打たれたディレクターズカット版が最後かと思っていたら、何と監督のリドリー・スコット自らが最初のワークプリントを基に、「本当の最終版」として再編集した『ブレードランナー ファイナル・カット』(2007)が創られた。ワークプリントを含めると、5種類の版が存在する。ファイナル・カット版にはナレーションはなく、雨中のうどん屋のシーンが短くなり、ユニコーンの夢のシーンが1ショット追加され、エンディングの森のシーンは復元されていない。最新のデジタル技術で修正、カラー補正したためか、酸性雨が降り続き、暗く汚れた街という印象が強かった近未来都市が妙に明るく小綺麗な街になっている。ナレーションを削除したこともあり、私立探偵風のムードは見事になくなっている。
   初公開版には手作り感があった。デッカードが乗るスピナーを吊るすワイヤーロープがはっきりと見え、お手製の視覚効果といった温かさを感じさせた。そのワイヤーロープをデジタルで消した。お手製感は失われ、ザラザラとした冷たい印象が残る。こういうお手製の視覚効果がデジタル技術によって抹消されることに、SFオタクらは何も感じないのだろうか。もっと騒いでもいいのに、と思う。ヒロイン、レイチェル役のショーン・ヤングの美貌は、初公開から25年経った今でもクラクラするほど。ジンジンにいい。デッカードがスピナーに彼女を乗せて森を走る初公開版がやはり好きだなぁ。
Text by 田沼 雄一/Yuichi TANUMA(映画評論家)

2007 11 29 [Pick UP! DVD] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

Jul 11, 2007

Vol.2 『ディア・ハンター』 映画史に残るラスト……その余韻は初公開時よりも重い。

  好漢ジェフ・ブリッジスが快男児クリント・イーストウッドをまんまと喰った銀行強奪物の快作『サンダーボルト』(1974)で映画ファンにその存在を強烈にアピールしたのがマイケル・チミノだった。センスの良い、語りの巧い監督さんという印象を持たせた。その監督が「ロバート・デ・ニーロ主演でベトナム戦争物を撮っている」というニュースが映画雑誌で紹介された時、映画ファンのほとんどが驚き、そして大いに期待した。『サンダーボルト』のようなシャープな戦争映画になっていることだろう……と想像しながら日本での公開を待った……シャープどころか鋭利な刃物のような作品になっていた!

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  日本では1978年夏に公開された最初の『スター・ウォーズ』(1977、ジョージ・ルーカス)、その熱がまだ冷めやらない1979年3月、『ディア・ハンター』(1978)は今はもうないシネラマの大劇場・テアトル東京でロードショーされた。封切りすぐにアカデミー賞で作品賞を始め5部門での受賞の報せが入り(当時は衛星放送による同時中継はあり得なかった)、約2ヶ月のロングラン上映という大ヒットに結びついた。その後、丸の内松竹系の小規模のチェーンに移り、そこでも約1ヶ月間のヒット上映となった。公開前は全くの無名だったクリストファー・ウォーケンとメリル・ストリープがこのヒットで日本でも一躍注目のスターとなった。映画雑誌のグラビアに毎号、二人の特写が載っていた程だ!
  日本での公開を1ヶ月後に控えた1979年2月21日、虎ノ門の森ビル内にあった配給元・ユナイト映画の試写室で観た。前半の延々と続く賑やかな結婚式の場面から一転して、静寂と共に〈死〉への畏敬が注がれた鹿撃ち、そしてまた一転してヘリコプターの大爆音と共に観る者を一気にベトナムの悪夢のような戦場へと引きずり込む凄まじい展開に圧倒された。銃口をコメカミに当てて引き金を引くロシアンルーレットの戦慄、デ・ニーロがアッという間に南ベトナムのゲリラ兵を葬り去る衝撃。フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』(1979)が公開されるのは翌1980年の2月。映画ファンがスクリーンで初めて遭遇したベトナム戦争をリアルに伝える衝撃的なシーンは『ディア・ハンター』だった。
  鹿撃ちの山岳シーンと後半すぐのベトナムの戦場シーンの、印象派絵画を思わせる深みのある映像と意図的にドキュメンタリー映画のような粒子の荒さを持たせた映像の対比は今度のDVD版で観直しても強烈だ(撮影監督ビルモス・ジグモンドの手腕に乾杯!)。マスコミ試写が終わった時、同席されていた作家・池波正太郎氏の発した一言を思い出す。曰く「昔はウィリアム・ワイラー監督が『我等の生涯の最良の年』(1946)という映画を創ったけど、この『ディア・ハンター』はさしずめ〈我等の生涯の最悪の年〉とも言うべき映画ですね」
  ラストの葬儀の後の食事の場面は、長く映画の歴史に残る名場面だ。一人が口ずさんだ「ゴッド・ブレス・アメリカ」をテーブルを囲んだ皆が静かに唄い出す。『ディア・ハンター』は1975年5月に終結したベトナム戦争から僅か3年後に創られた映画。あの時代、皆がこの歌を戦場で亡くなった者たちに捧げた。それから20数年後、この歌はマンハッタン・グランドゼロの悲しみを癒す歌として再び多くの人たちに唄われることになる。あの歌に『ディア・ハンター』初公開当時よりも重たいものを今感じる。

Text by 田沼 雄一/Yuichi TANUMA(映画評論家)

2007 07 11 [Pick UP! DVD] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

Jul 09, 2007

Vol.1 『REDS』 圧巻の3時間16分! この大作は時を超える名作だ!!

 素晴らしい画質とサラウンド音響によるDVD版で『レッズ』(1981)を観直し、監督・主演・共同脚本(トレヴァー・グリフィス)のウォーレン・ビーティのこの作品に注いだ情熱に改めて感動した。上映時間3時間16分。途中休憩の入った大作映画。準備から完成までおよそ5年の歳月を費やした。1910年代の、世界が混乱していた時代の荒れた空気を画面の隅々にまで表現したビーティの演出は今観ても手応え充分だ。画面の密度が濃いこういう大作映画はもう創られることはないかもしれない。

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 アメリカ人でロシアのクレムリンに埋葬されたジャーナリスト、ジョン・リードの激動の半生を描いている。リードは1917年のロシア革命を取材した名著「世界をゆるがした十日間」(岩波文庫刊)を著し、世界にロシア革命の実態を伝えた。
 『レッズ』は1981年のアカデミー賞で監督、撮影(ヴィットリオ・ストラーロ)、助演女優(モーリン・スティプルトン)賞を受賞した。同じ年に公開された『炎のランナー』(1981、ヒュー・ハドソン/作品、脚本、作曲、衣裳デザイン賞受賞)『黄昏』(1981、マーク・ライデル/主演男優、主演女優、脚色賞受賞)とかち合わなければ、ビーティは作品賞と主演男優賞、リードの妻ルイーズ・ブライアント役を演じたダイアン・キートンは主演女優賞を獲得していたかもしれない。日本では1982年4月に公開された。アカデミー賞受賞の翌月公開で話題は豊富、マスコミの評判も良かった。それでも当時は3時間を超す上映時間がネックになって興行側に嫌われた。一日の上映回数が少ない、客の回転が悪い、というのがその理由だった。中には休憩を挟まずに3時間16分ぶっ通しで上映した映画館もあった。当時宣伝をしていた人に「“せめて2時間以内にならないものか本国に問い合わせて欲しい”と興行側から要望が出された」と訊かされたことがある。
 勿論、どんなに時間が掛かろうとも納得するまで何度も撮り直すビーティが、日本の興行者の意見に耳を貸す訳がない。何しろ、ロシアの病室での静かな出来事を通路から据えっぱなしで撮った1分弱の、映画史上に残るあのラストシーンに「何と10日間も掛けたんだとさ」とパラマウント映画の元副社長で製作部門の最高責任者を務めたロバート・エバンズを呆れさせた程の〈完全主義者〉である。『レッズ』はエバンズがパラマウント映画に在籍していた1970年半ばに企画が持ち込まれ、一旦はエリア・カザン監督、ビーティとキャンディス・バーゲン主演で製作されることが決まったが、カザンの体調不良で製作中止となった。エバンズは相当悔しがったそうだ。
 その後、ビーティが独力で製作準備を進めたという訳だ。特典映像に収録されている彼へのインタビューで初めて知ったのだが、『レッズ』を監督するため、わざわざ監督修行と製作費捻出を兼ねてロマンチック・コメディ『天国から来たチャンピオン』(1978)を手掛けたのだそうだ。『レッズ』は監督2作目。しかし大ベテランのような風格と堂々とした演出で3時間16分を一気に見せる。特に第1部の終盤、休憩直前のシーン、有名な革命歌「インターナショナル」が流れる中、ロシアの労働者らと共に革命運動に参加するリードとブライアントを溢れる躍動感で描写したくだりが素晴らしい!
キートンの若々しさと凛々しさ。ビーティの溌剌とした豊かな表情。当時、ビーティは映画デビューから20年目、キートンは11年目だったが、まるで気鋭のスターのように新鮮に見える。あの頃の2人はリードとブライアントと同様、私生活でも仲睦まじかった!

Text by 田沼 雄一/Yuichi TANUMA(映画評論家)

2007 07 09 [Pick UP! DVD] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック